「鼻紙写楽」一ノ関圭

天才、鬼才

寡作な漫画家筆頭

一ノ関圭の新作、といっても、初版2015年間3月。

実家には本も漫画も積み上げているが、狭い我が家は、断捨離したこともあり、ギリギリまで厳選して、本も読んだら売りに行くことにしている。

本との付き合い方を描いた漫画、小説で印象に残って忘れられないものがある。

一つは(うろ覚えだが)たぶん、アタゴオル…ではないかと思う。

猫が人のように動く漫画で、

その世界では、一年に一度、本箱の見せ合いっこをするらしい。

ある見栄っ張りな猫がの本棚には立派な本がいっぱい詰め込んであるのだが、本棚が意思を持って動いて、その猫はちゃんと本を読んでないことが証明されてしまう。

ちゃんと本をしっかり読んだ猫は、みんなから褒められる、そういう話だった。

立派な本が並んだ本棚を人は立派と言うけれど、身読してない本を並べているだけだとしても、他人にはそんなことは分からない。

それが証明されてしまうって言うのは、面白いけど、怖いことでもある。

私も、本を読んでいて不安に駆られることがある。私は本当にこの本を理解してるだろうか?と。

たとえ漫画でもだ。

ちゃんと理解して読めているか、本棚が教えてくれたら良いのにと、少し思う。

もう一つは、なんだかゲイが多いミステリを書く高村薫の作品で、ロシアから来た余命いくばくもない青年が、バックパックに、いつも本を三冊だけ持っているという話で、

彼は、たった三冊しかない本を大切に繰り返し読むのだが、

そんなにも愛した本でも、三冊しか持たないというルールによって、新たに読む一冊が加わると、どれか一冊は手放すのだ。

本当に大好きで気に入った本も、三冊しか手元に置けない、手元に置かないと決めている彼を、私は心底気の毒に思った。

けれどよく考えたら、三冊は少なすぎるにしても、私たちはそんなにも多くの本を身読できないのだ。

身読したものは、自分を信じて敢えて手放すというのも、賢明な本の読み方なのかもしれないと、今は思える。

けど…写真集や、詩集など手元に置いて繰り返し読みたいけど、読み物としては読み応えがないものもあるし、やっぱり三冊は少なくて辛そう…と思うのだけど。

閑話休題。

一ノ関圭。

寡作作家中の寡作作家なので、そんな人知らないという人が多いのではないか。

なにせ「鼻紙写楽」は、四半世紀ぶりの新刊なのだ。寡作でしょう?

私は彼女の「らんぷの下」を文庫で手にしたとき、その絵の上手さに舌を巻いた。

上手い。ほんまに上手い。

絵の上手い漫画家は、今大勢いるが、美大で油絵を専攻していたという一ノ関圭の画力はまぁ、もう、なんというか、図抜けていると思う。

だけど、私は絵が下手くそでも構いやしない。

よっぽど合わない場合は除くが、絵が漫画太郎でも全然良い。

それより、ストーリーの面白さに、ぐんぐん引き込まれる。

ぐんぐんと、陳腐なことしか言えないのが悔しい。

この漫画の帯はあの高橋留美子が書いているのだが、稼いでる漫画家、ドル箱作者という意味では、一ノ関圭は高橋留美子の足元にも及ばないだろう。

けれど、価値という意味でなら、一ノ関圭は、高橋留美子に勝るとも劣らないと、私は信じる。

しかし、たしかにお金は価値のバロメーターなのだ。

価値とは、果たしてなんだろう?

立派な本を並べた本棚と、

本当に読まれた本を並べた本棚と。

誰が「本当」を証明してくれるのだろう?

なんかそんなことを考えてしまった。

(おわり)

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