保育所の先生との出会いがトラウマになり、私にとって随分長い間、「先生」という存在は「見るも汚らわしい」存在でした。
子供の頃、絵を描くのが好きだったのですが、親から「絵が好きなら中学か高校の美術の先生になれ」と言われ、
死んでもならん
と思っていました。
無理強いしてくる雰囲気があったので、この頃の私はいつも怒りを感じていました。
皆さんには、ありませんか?
嫌なことを分かってもらえず、進路を無理強いされた経験。
私と同年代とか、上の年代の人だと、そういう経験がある方も多いのでしょうか?
私の母は団塊の世代。
当時は進路指導という考え方がなく、適性関係なく、偏差値の上から進学先を振られるものだと思っていたと言います。
将来はどんな仕事につきたいかということより、偏差値カタログから「選ばされる」未来が当たり前。
ちょっと勉強が出来るから進学校。
勉強は出来るけど、家が貧乏だから高卒。
私は、そんな時代はそのうち、終わっていくんだと思っていました。
親からであれ、金銭的な条件からであれ、何かやりたくない仕事に将来つかせられることほど、本人にとって苦しいことはないように思います。
例えば母の兄は、勉強が苦手で、いとこ達と同じく漁師になれればそう不幸でもなかったのでしょうが、
祖父に勉強を無理強いされ、すっかりグレて家を出てしまったそうです。
そんなファミリードラマを持つのに、母は私には一番嫌いな職業を押し付けて来ました。
親になると、子供の頃嫌だったことは、心の中からかき消えてしまうようです。
幸い、私は教員にならずに済みました。
今は自ら師匠について修行していますし、「話し方の学校」で学ぶようになって、教育に関する仕事をしている人との出会いが増えましたが、嫌ともなんとも思ってなかったので、おそらくすべての教師が嫌いって程ではないのでしょう。
職業は、親が子供にあてがうものではないと思います。
学歴を与え、職歴を与え、
なんでも親から与えられるもので「子供が出来上がる」としたら、それは親は自分の子供を育てているのではなく、
自分のコピーを作っているか、
自分の子供時代をやり直そうとしているかです。
子供は親の遺伝子の半分を受け継いでいますが、全く他人です。
何より、親と子供では生きている時代が違うのです。
与えられるもので出来上がってしまうと、自分で判断する能力が育ちません。
しかし私は、子どもが進路を無理強いされるのは「可哀想」と思ってこの記事を書いているわけではありません。
現に今、判断する能力の不足を自分に感じて、悩んでいるのです。
これは、師匠から繰り返し言われることで、
「デパートの上から下まで歩き回って、『私、これ好き』『これ嫌い』『これ好き』って訓練して来なさい」
「批判的なものの見方を身につけなさい。上手く行ってないところは、なぜ上手く行っていないのか考えなさい」
例えばホームページでも、上手く行っているところを見ろと、師匠から言われたことはありません。
その判断能力が私には「ない」と師匠が考えているからです。
自分の好悪を大切にして、自分を知る、自分の価値判断の軸を持つこと。
ダメなものに対して、「いいね、いいね」のぬるま湯から出て、批判すること。
師匠は元専業主婦。
与えられたものの中でぬくぬくしていたとき、「本質を見る目を持つ」ためにそういった努力をしたそうです。
進路を無理強いする、「無理」まで行かなくても、自分で判断する習慣を持たせないと、それは大人になっても引きずります。
判断は習慣です。
判断する力、子供の頃から大切に育てたいものです。
育て損なった私は、今日も「本質を見る目」を模索しています。
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